気まぐれ Art note

洲之内徹が連載した「気まぐれ美術館」に憧れてます。

和家具の面白さー小泉和子講演会に行って来ました。

東京都大田区にある「昭和のくらし博物館」は、「昭和26年建築の木造2階建ての庶民住宅(登録文化財小泉家住宅)を丸ごと公開している博物館」です。

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博物館の縦折リーフレットによると、

平成8年までの45年間は小泉さん一家が暮らしており、その後壊すことも考えたが、この時期に建てられた住宅が現在ほとんど残っていないことなどから、戦後の庶民のくらしを伝える資料になるのではないかと考えて、博物館として保存することに決まったとあります。館長・小泉和子さんがリーフレットに書いている言葉が大切だと思ったので、一部紹介します。

「考えてみれば私たちが生きた昭和という時代は、昭和恐慌によって幕を開け、日中戦争、太平洋戦争と、あいつぐ戦争から、戦後はまた、生産体制から社会、文化、生活のすべてにおいて大変動が起こった激動の時代でした。そしてこうした時代の激流にもっともおおきな影響を受けたのがくらしです。くらしは人間が生きてゆく上の基礎となるものですが、くらしというものを重視する基盤の弱い日本では、まず最初に犠牲にされるのがくらし、それも庶民のくらしです。このため、単に住宅と家財を保存しておくだけではなく、ここを学習の場として、くらしの面から昭和という時代をもう一度考え直してみたい、そして出来得るならば、くらしの哲学といったものを打ち立てたいと思い、昭和のくらし博物館』としました。どうかみなさまもご一緒に昭和という時代をもういちど考え直してみてください。」

 

さて、6月11日(土)に昭和のくらし博物館館長・小泉和子さんの講演会があるという情報をgetしましたので、行って来ました。 

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講演会は、「和家具がなくなって、いまは洋家具になってしまった。和家具は面白くて、美しかったのに。私たちは自分の文化をどんどん捨ててしまって、本当にもったいないと思っています。」という言葉から始まりました。この言葉があと3回くらい出てくるので、大変重要なんだと思います。「どっかに棚が捨ててあったら、絶対拾ってきなさい」「みんなは時間が経つと古くなって汚らしく感じて、壊して捨ててしまう」と言われたので、私もどっかに捨ててあったら絶対回収すべしと思いました。

 

棚は日本の造形芸術であり、

和家具の大きな特徴はアシンメトリーであること。アシンメトリーはすべての日本の造形に通じる基準である。それは自然の造形がアシンメトリーであり、日本の家具は自然の造形に習ってつくられている。家具に、自然に対する尊敬や崇拝が表れている。対して左右対称というのは人工的で、自然より人間がえらい。中国は自然環境が厳しいから、自然を征服しなければ生きていけないという考えがあり、したがって造形も左右対称で人工的になる。

というお話でした。和家具の歴史をスライド上映で見せていただきました。

中国から入ってきた正倉院の棚「赤漆文欟木御厨子」、法隆寺の竹厨子(竹を細かく並べてつくった)などから、平安時代になると中国から入ってきた厨子の形が変化して、日本独特の厨子になる。二階厨子、二階棚。そして中世になってまた変化し、『法然上人絵伝』を見ると、違い棚(アシンメトリー)の厨子棚(黒漆塗)が出てくる。

 

天下の三大棚

桂離宮の桂棚

三宝院の醍醐棚

・(もひとつなんだっけ……~~;;汗)

 

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 館内では先日「かんたん野草茶」の講座を開いたということで、そのときの野草が干されていました。

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竹細工、こうして使われているとなんと美しい風景でしょうか。道具は使うものです。 

 

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 ミュージアムショップにあった布ぞうり。84歳のおじいちゃんが編んでいるそうです。オサレ。

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 佐渡の藁草履もありましたよ。

 

学習の場として使用するという講座プログラムがすばらしかったので、(主に参考にしようとしている自分のために)ここに書いておきます。

★講座

・生活史講座……江戸の生活史、女性の歴史、古文書読解など、専門の講師による幅広い分野での連続講座。

・土曜夜間講座……「火鉢を囲んで建築の歴史」など、専門の講師による建築や美術、考古学に関する連続講座。

・家事の伝習講座……漬物や薬草茶などの食べ物づくり、浴衣、袋物などの簡単な和裁や編み物、ハタキづくりや障子貼りといった掃除関係など、おばあちゃんがやっていた昔ながらの家事を実践する講座。

・土曜お茶の間会……主に月末の土曜日に開催するお茶の間サロン。楽器や蓄音機でのレコード演奏会、着物の着付けや茶道などの体験、木や和紙を使ったものづくりのワークショップ、”昭和”をキーワードとしたトークなど、多彩な内容で開催。

★体験学習

洗濯板やすり鉢体験など、小学生を対象とした見学プログラム。すり鉢を使った体験は随時受付(有料)。

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HP:

http://www.showanokurashi.com

 

それから小泉和子先生はたくさん本を出しています。多くを見、多くを読み、よく考える。あたしはまだまだ勉強しますよ。

 

それでは、ご興味のある人は行ってみてください。 

 

 

 

倉庫の中で……

毎月数日、民俗資料室の倉庫の中で働いています。一緒に働く仲間から教わることが多いので、教わったことを記しておこうと思います。

今の仕事は、各地域から収集した竹細工の整理。過去のラベルを外し、新しい資料番号のタグをつけ、埃を払って、撮影のための準備をしています。作業をしながら、竹という素材で作られた道具が様々で、それがアジア一帯にあり、用途によって使い分けられていたことがわかり、驚きます。

 

今回、1番最初にご紹介したいのはこれ!

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ツァイフ(弁当入れ)
野良におかずを入れて運ぶ
110×胴 240×底 245×h265

アジア各国を歩いている映像学科卒のMくんの解説によると、貴州省というところは山岳地帯で、少数民族が住んでいます。貨幣経済の基準で見ると貧しい地域ということになりますが、このような弁当箱をつくってしまうなんて、豊かではないですか。「かっこいい、この弁当箱かっこいい」……というお話を聞いて、貴州省を調べてみると、現在は徐々に経済成長して古い町並みや伝統、このような竹細工の弁当箱も姿を消しつつあるようです。たしかに素敵な弁当箱ですよね。

貴州省の古い町並み

 

 

続いてこちら

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筌  川魚用
185×L290
台湾  蘭嶼

台湾の蘭嶼(らんしょ)という地域に伝わるトビウオ漁に使われた道具で、もう現地に行っても近代化してこのような道具はない!とまたまたMくんが教えてくれました。現地が近代化して捨てていくものが、ここにある。保存してあることで、私たちは少し前の暮らしを知ることができます。

蘭嶼 - Wikipedia

 

さて、アジアの竹細工を解説してくれた映像学科卒のMくんですが、いまはドキュメンタリー映画の撮影にアジア各国を飛び回る日々のようです。どのようなことを追っているのかと聞いてみると……。

インドネシアにずっと通っていて、インドネシアのまぐろ漁を撮影している。毎年行って記録し続けていると、町と生活がものすごいスピードで変化していると感じる。たとえば、車。少し前まではのどかな農村で、それこそ牛が歩いているようなところだったのに、車が入ってきた途端、道路を舗装し始めた。舗装したら次々と車が入ってくるようになり、こんどは狭いと言って道路拡張をし始めた。また、浜と民家は地続きのような生活で、海と共に生きていたが、そこに防波堤ができた。防波堤が建ったことで、海と共にある生活は1枚壁ができたような生活に変化した。自然の素材を使って、当たり前に編んでつくっていた道具はプラスチックに変わり、大量に捨てられている。これはかつての日本の昭和、高度経済成長期はきっとこんな様子だったのだろうと思って記録している。とのこと。

もうひとつ

山梨県甲府に伝わる伝統的な盆踊りがあり、それは他の地域とは異なる盆踊りだったが、今は行われていない。村のお婆ちゃんが、訪ねてきた若者5人に昔の盆踊りを話したところ、若者5人はお婆ちゃんの話に心動かされた。そこでお婆ちゃんの話をもとにかつての盆踊り復活をしてみようと動き出す。

というドキュメンタリーだそうです。

 

貴重映像!

「完成はまだまだずーっと先」と言っていましたが、

ぜひとも完成させて、上映していただきたいと願っています。

 

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そして作業は続く……

 

 

未完成の意味

 昭和47(1972)年に開館した佐渡國小木民俗博物館は、設立から44年になります。現在のパンフレットと設立当初のパンフレットでは、書いてある内容がずいぶん違うようです。私が設立当初のパンフレットの内容を知ったのは、当時の社会教育主事・中堀均さんの原稿を国立国会図書館で見つけて、読んだ時、その原稿に紹介されていたのです。中堀さんの原稿によると、次のようなことが書いてありました。

 

 「民具を寄附していただくとき『昔はこんなもんでやっよんだっちゃ』と個々の品物を説明してくれるおじいちゃんの顔は実に生き生きしている。汗を流しただけではない。知恵も使った。自分に何ができるかも考えた。共同でも話し合いを考えた。そして身近なものを工夫して利用した。気休めは求めなかった。すべてではないが、この中にはそのような道具がいくつかある。これらのものを、今後どのように生かすかは、皆様方の知恵をお借りしなければならない。形は残ったが、心は残らぬでは、物の羅列にしかならぬ。

 消えたに等しい『あわれ』や『つつましやか』の伝統の中身となる自然や心をこの中からリクリエートしていく努力はするが、大きな時間が必要だと思う。

 ー人々に工夫する知恵と

    汗を流す楽しみを、

       そして憩いをー

 この民俗博物館だけでなく、日常接するおじいちゃんやおばあさんから学ぶことが出来れば、幸せに思います。一人でも多くの、あらゆる職種(百姓、漁師、大工等)の方方の力で、自分達の生きてゆく地域を考える場として、永遠に未完成のまま続くであろうこの博物館を、よりよきものに育ててゆきたいと思います。」

 

 

 深いことが書いてあるなぁ。と思うと同時に、文中に出てくる「未完成」という言葉が、どうにも気になりました。未完成ってどういう意味なんだろうか、と。

 「未完成のまま続く」ですぐ思いつくものといえば。。。。

 ガウディのサグラダファミリア


映画『創造と神秘のサグラダ・ファミリア』予告編

 

「生誕の門をつくっておけば、次の世代が完成させるだろうと彼は言っていた」

 

それから、未完成といえば……

数点しか絵を完成させなかったレオナルド・ダ・ヴィンチ

結局レオナルド先生の本もつくらずに終わっちったなー。。。

 

いずれにしても、 

未完成の意味を、私はまだ考え続けています。

 

 

 

船大工が作った和船模型の展示を観に行く

神奈川大学の中に常民文化研究所があり、横浜キャンパス3号館に和船の展示があると聞いて行って来ました。焼津にいた船大工・近藤友一郎さんのコレクションで、和船の造船技術がわかりやすく、小さな個室ですが基本的なことを知ることができました。

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最初は、展示の構成を説明するパネルがあります ↑↑↑。
展示は調査研究が繰り返されることによって同じ資料であっても姿を変えますし、視点を持った切り口(企画)によっても変化します。ここでは、「パネルによる近藤友一郎氏とその業績に関する紹介」「船大工の道具を中心とした船作りのコーナー」「模型の展示」で構成されており、展示資料は1万点以上あるうちのおよそ400点を公開。船大工・近藤友一郎さんが作った船の模型14点から、全国各地の和船と和船の「型」を見て知ることができます。
 
さて、同じく船大工のコレクションを所蔵し、北前船の寄港地として栄えた宿根木(佐渡島)にある「佐渡國小木民俗博物館」で、私が見たくても見つけられなかったものがあったので、紹介します。
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見たかったもの、その①【板図】 
これが板図か〜✨✨と思いました。
 「板図は当時の船大工棟梁が、船主の要求を聞きながら描いたもので、板図を『形板』、図を『小形』と呼んでいる。図ができて船主と合意に達するとお祝いをし、船造りが始まる。」(白山丸友の会『時代に帆を揚げてー白山丸復原の足跡ー』)
 前回の更新で『時代に帆を揚げてー白山丸復原の足跡ー』という本を紹介しましたが、この本の中に「板図を再現する」場面も描かれており、大変興味深く復原の過程そのものがおもしろいです。23ページ ↓
 「博物館にある板図54枚のトレースをまず初めに行った。板図の縮尺はすべて10分の1で、0を1つ加えれば実物大の寸法となる極めて便利な寸法である。先を鋭く切った竹の墨刺で描くのであるが、この曲線、板図によっては消えているものもある。それでもうっすら板図に曲線のヘコミを見つけてはトレースする。まったく見えないものは霧吹きで板図を濡らすと、墨の曲線が浮いてくるものもあった。線の浮きが、さらに弱く、何も見えないものは流水に24時間漬け置くとクッキリ浮上する場合もあった。150〜200年前以前に描かれた曲線である。祈るような気持ちで墨の浮上を願ってトレースしてみたのである。」
 
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見たかったもの、その②【和釘】
これが和釘か〜✨✨
 聞いた話によると昭和45(1970)年頃までは、小木町を歩くとガッチンガッチンと鍛冶屋が鉄を叩く音が聞こえたといいます。いま歩いてもそんな影も形もみつけられませんよね。以下すべてTEM研究所編『平成5年度・地域木造住宅供給促進事業 伝統木造住宅展示事業 宿根木の町並と民家Ⅱ』(佐渡郡小木町)を読んだ知識によりますと、、、
 鍛冶屋は千石船に積む頑丈な船箪笥の金具や、家屋に使う和釘を作っていました。船大工の家は在来工法で和釘を使用しており、伝統的建造物保存地区の修復でも、小木町で製作した和釘が使用されています。「打ち込まれた釘は数ヶ月で錆びはじめ板と一体となり強度を増す」という力があるそうです。後は本読んでください。
 で、私は博物館の新館の隣にある炭焼き小屋を活用して「鍛冶屋復活計画」をし、みんなで和釘つくるぞ!と企画したんですけどね。。。(え、これ減点なの? 実物資料を見ていないことがバレている?㊙︎)
 やっぱり博物館から鍛冶屋の町を復活させましょうよ。
 
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発見したこと① 大板を曲げる技術
 そういえばどうやって木を曲げるんだろう。こうやって木は曲がるのか〜ということがわかります。これは白山丸復原過程を記した本には載っていなかった気がします。展示室の写真を見て感心。かっこいいなぁ、生で見たいわぁ、どこで作業している写真かしら…と思って地名をチェックしたら宿根木ではないですか。この頃わたし佐渡で何やっていたんでしょう!?  義務教育過程で学校と家のチャリンコ往復しかしていない時代ですね。
 
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 和船の技術って精巧にできていて細部まで見事ですよね。 展示の後半は、フォルムが美しいなぁ…とか、職人の仕事に対する美意識を感じて、すばらしかったです。
手仕事、良い仕事。
 
◼︎一般公開、無料。
 
 
 
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佐渡國小木民俗博物館と千石船「白山丸」のつながり

前回、佐渡國小木民俗博物館の設立について書きましたので、

地域の力で設立した佐渡國小木民俗博物館 - 気まぐれ Art note

今回はその後、博物館の隣にできた「千石船展示館」について書きたいと思います。

 

【2-3】集落総出で復元した千石船「白山丸」

 佐渡國小木民俗博物館設立から26年後の平成10(1998)年、博物館の隣に実物大に復元した千石船「白山丸」が展示された。これは地域住民の、千石船を復元したいという願いで実現した。提案者は、4代前の先祖が宿根木と関西方面とを結ぶ、北前船の船頭をしていた石塚敏行。時代の変遷と共に絶えてしまった千石船復元の動機には、博物館の影響が大きいという。石塚によると、「古いものを大事にしなさいという宮本常一先生の教えが集落に残っている。このような民具はなんでこの集落にあるのかを考えて、先人たちの足跡を伝えていかなきゃならん。昔はここが佐渡の玄関だった。千石船は150余年前に村人が造った船で、船主がおって、千石船で栄えた土地だった。そうは言うても、今はなにもない。宿根木の歴史を佐渡の子供たちに知っておいてもらいたい」(註40)ということだった。

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復元された千石船「白山丸」

 

 石塚はまず集落の友人に相談し、賛同者を募った。それが平成3(1991)年のこと。動き出してはみたものの、すでに絶えてしまっている千石船の具体的な知識がなかった。それでは勉強会が必要だということで、講師に真島俊一(TEM研究所所長)を招いた。真島は昭和45(1970)年、武蔵野美術大学建築学科を卒業。かつて小木町白木と宿根木の民家測定と生活調査をして、その徹底した仕事ぶりに宮本常一を驚かせた学生である。卒業しても、宿根木の民家測定を続けるよう宮本から助言されていた真島は、その後も佐渡を度々訪れ、地域の人たちと一緒に博物館設立時の民具収集を手伝っていた。さらに、宮本から日本の漁船調査を依頼されたことがあり、日本海沿岸のみならず船の原型を探すためインド、インドネシアにまで行って調べた経験があった(註41)。建築学の知識を持つ上に船の歴史と構造にも詳しかったのである。そして数回の勉強会と会合を重ねた末、平成4(1992)年「千石船建造推進委員会」が発足される。真島は設計図を手がけ、完成までのプロセスの指揮をとる。(「佐渡島の博物館統廃合から考える文化財の継承ー存続か閉館かを分かつ限界集落の地域遺産と、宮本常一の人材育成としての民具研究ー」より)

 

 白山丸が完成するまでのプロセスは、白山丸友の会が発行した『時代に帆を揚げてー白山丸復原の足跡ー』を読むと詳しく書いてあります。この本のなかで13ページは、博物館活動を考える上で重要だと思います。とくに武蔵美学芸員課程を受講する学生などにおすすめですよ。博物館の設立時に、収集・保存・調査・研究という学芸員の基本的な仕事が行われていたから、この資料をもとに地域の文化財ができあがっていったという、すばらしい過程を知ることができます。出題:「美術館における収蔵品の意義を探求する」という課題レポートがありましたが、この答えに該当すると思います。

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↑ ↑ 博物館のミュージアムショップで販売しています。

 

 

◼︎ 13ページの内容を紹介します。

「資料の収集と保存は博物館があったから」

  宿根木は、弁財船の船主、船頭、水主(船員)など海運に従事した人たちだけでなく、船を造船、修理する船大工、鍛冶屋、桶屋、家大工などいた総合海運業の村となっていたため、資料も多彩だったはずだが、これらの資料は戦後、不用になって捨てられ始めていた。処分が進んだ最後のころ、緊急に集め大量に収集、保存できたのは宿根木小学校が廃校になり、この空き校舎を博物館にした林道明館長と中堀均さんがいたからであった。2人が集めた民具類の総量は5万とも7万と点ともいわれるが、未だに全体の整理はついていない。残念なことである。

 この資料や民具の中には昭和49年(1974)国の指定文化財になったものがあり、それが漁具漁船1304点であり、船大工道具957点であった。これら史料を使って白山丸が平成10年(1998)に復原できたのである。24年前に保存されたこれらの資料に大いに感謝しなくてはならない。
 実を言えば船大工道具の収集の始まりは琴浦、屋号清水の主屋の屋根裏に、びっしり船大工道具の工具箱が並んでいたことからである。
 これを発見したのは民具と民家の調査に入っていた武蔵野美術大学の学生たちである。林道明館長と中堀均さんにこの情報を伝えると、2人は同家からの寄託を受けることができた。同家の主人高津正明さんは元船大工で称光寺の檀家で、林さんや中堀さんのよき理解者であり、後に新潟民具学会に入り千石船の復原を初めて提案する人となる。
 次に造船の設計図である板図が集められ、さらに沢山の民具の収集と保存が進んでいった。集められた民具、資料の多彩さに驚いた民俗学者武蔵野美術大学の教授でもあった宮本常一先生の助力で、国指定になる。この間の活動を支えた当時の町長金子繁さんの力も大きなものだった。こうした活動や博物館の民具、活動を支えた諸賢に深くお礼申し上げなくては現在千石船はない。(TEM研究所・眞島俊一)
 
 
 これを読むと、言い出しっぺ石塚敏行さんより前に高津正明さんという元船大工がいて、やはり千石船を復原させたいと言っていたことがわかります。ということは、地域全体に自分たちの歴史と文化を再生させたいという気持ちが潜在していたということであり、それは博物館設立がきっかけとなり、大きくさせていく原動力にもなった、と考えていいと思いました。
 このように博物館と白山丸のつながりが深いにも関わらず、現在は博物館と千石船展示館が別々に見えてしまうのはなぜでしょう? 
 次回の更新は「展示」を考てみたいと思います。
 
 
 
 

地域の力で設立した佐渡國小木民俗博物館

 博物館は設立が大切なので、

 とりあえず、私が学んだ武蔵野美術大学とつながりが深い「佐渡國小木民俗博物館」の設立をここにのっけておきます。みんなに知っておいてほしいよー。

◼︎地域の力で設立した佐渡國小木民俗博物館

【2-1】民具を収集して地域資源から文化財を発見する

 昭和47(1972)年に開館した佐渡國小木民俗博物館(以下、小木民俗博物館)のきっかけは、設立から14年前の昭和33(1958)年にさかのぼる。その年、民俗学者宮本常一新潟大学で開かれた日本民族学・日本人類学連合大会の後、佐渡を訪れた。この時に古い慣習が残っている所を調べようということになり、今度は九学会連合の調査として翌年も、翌々年も来島した。調査に訪れた宮本を、旧小木町宿根木にある称光寺の住職・林道明が尋ねて行った。その後、林が宮本に佐渡で講演会をしてほしいと依頼。以後、宮本は度々島内各所で講演会をすることになる(註21)。昭和40(1965)年に宮本常一武蔵野美術大学専任教授の職に就く。その4年後、昭和44(1969)年に奇しくも武蔵野美術大学建築学科の学生が佐渡を訪れ、小木町白木と宿根木の民家すべての測定と生活調査を行った。「精密と心のゆきとどいていることで私の眼を見はらせるものであった」(註22)と宮本に評価された調査結果は、大学で展覧会が開催された後に、小木民俗博物館に寄贈されている(註23)。

 そして博物館づくりは、昭和45(1970)年に宿根木小学校が廃校になったことで動き出すのである。中心となったのは、称光寺住職・林道明(後に初代館長に就任)、武蔵野美術大学建築学科の学生達、小木町社会教育主事の中堀均である。中堀が当時のことを記している。

「学校の統廃合の問題と過疎化との関連は深い。(略)私の町でも学校の統合により一つの小学校が廃校になり、地元でいろいろな話題となった。通学等の問題は解決したが、廃校舎の利用の問題である。昭和45年の春のことであった。地元では観光施設、工場誘致等の希望もあったが、ちょうどその頃、文化講演に来町されていた民俗学者宮本常一先生に相談したところ、民俗資料を収集して、民俗博物館にしてはどうかとの提案があった。」(註24)

 時代は日本経済が急速に発展した、高度経済成長期であった。家電製品の普及により日本人の生活は大きく変化し、便利で楽になり、それまで使われていた生活道具は大量に捨てられた。小木民俗博物館は、捨てられてゆく生活道具を集めてまわることから始まったのである。なぜかというと、そこには「人びとがどのようにして物を生産し、またどのような生活をたてて来たかをうかがうことはできる。実は人びとが捨て去ろうとしているものの中に、われわれの先人たちの歩いて来た足跡を見つけることができるのである。」(註25)という宮本常一の考え方がある。

 中堀は収集という行為を通して、寄附してもらった民具を見ると、使う人が消費者ではないことがわかると書いている。どれを見ても使い捨てのものはない。愛用していて、そのことは汗を流してついた手垢が証明している。大工、鍛冶屋、桶屋等がつくり、あるいは自分の手で物を作り、使う。「途中、何度も修理し、手直しをしている。現代の使い捨ての時代には考えられない人も多かろうと思う」とある(註26)。このようなことからわかるのは、集まった物の一つ一つに想いが込められている大切な資料だということである。資料と地域の強いつながりが見えてくるようだ。

 収集した民具は、埃や泥を落とし、写真、計測、収蔵展示し、寄贈者の名前を付す作業が進められ、小木町の多くの若者が手伝いに入った。中堀は博物館に出入りする若者や大学生の話し相手になり、そのうち人が人を呼んで多くの人が集まる場になり、過疎地の小さな集落に賑やかな博物館ができあがっていったのである。(註27)。博物館の資料収集・保存・記録は学芸員の仕事だが、ここでは中堀をリーダーに住民が一体になって作業が進行する。中堀が収集作業の続きを記している。

「こうして『こんなものなら家にもある』ということで、今度は持って来てもらうことになり、こうして量が増していくのである。このときから、住民と博物館の対話が生れ、とくにお年寄りは物をよく知っているので、記録するには大切な存在であるし、暇があることも博物館にとっては大きな利点でもある。博物館へ来る老人は生き生きしているといわれている。ある程度、時が過ぎ、物が集まると、博物館が人の集会場となり、日によると昼から酒盛りが始まり、今後どのように集めるか、誰があの家にはもらいに行くかなど、酒の上での話し合いが続き、夜を徹することも度々であった。」(註28)

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旧宿根木小学校を活用した博物館

 

 老人が体験を話し、若い男が運び出すという住民が一体になって収集作業をした結果、漁撈用具1293点、船大工道具963点が国の重要有形民俗文化財に指定された。中堀によると、このことがあまり重要視していなかったものに対する、地元の人達の物の見方と考え方を大きく変えたという。当時のことを知る人に、称光寺・林道明の跡を継いだ林道夫がいる。林によると「最初は皆んな、なんで民具なんか集めるのかと思っていた。それを廃校に持ち込んで、小木の若者や武蔵美の学生に整理・分類させて、公開したら皆んなが見に来た。宮本先生は資料から、どうやって地域で暮らしが成り立ってきたか、これからどうやって成り立たせていくかを考えさせようとしていた。」(註29)

 その後、博物館で、家業のこと、村の問題ことも話題になり、研修旅行、サマーセミナー、講演会などの企画も生まれ実行されていく(註30)。住民の手で自分たちの地域にある資料を収集する作業は、その過程で地域の文化を見つめ直すことにつながっていった。さらに過疎地で生業を立てて生きていくための、学びの場へと発展していくのである。昭和49(1974)年には、博物館で村の若者や大学生による日本海大学講座が開催される(註31)。佐渡独自の文化を打ち立て、離島での生きがいを対話形式で学び合おうとする青年たちの集いであった。

 佐渡國小木民俗博物館の土台を築いた宮本常一は、日本海大学講座第1回から7年後の昭和56(1981)年に他界する。

 

《参考文献》

宮本常一宮本常一著作集別集 私の日本地図7 佐渡』平成21年8月15日 未来社 、TEM研究所編『平成5年度・地域木造住宅供給促進事業 伝統木造住宅展示事業 宿根木の町並と民家Ⅱ』、中堀均「地域と結びつく博物館」『月刊社会教育』昭和57年6月 、宮本常一『民具学の提唱』昭和54年9月25日 未来社、『新潟日報』昭和49年9月12日付朝刊

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国指定民俗文化財・南佐渡の漁撈用具が収蔵されている新館展示室より

 

 本文中に(註)があるのは、これ私の論文の一部なんです。社会教育主事の中堀均さんの原稿からたくさん引用させていただきました。博物館づくりは大変だったと思うけれど、楽しそうですよね。設立がしっかりした博物館は、その後の活用に幅があり持続性があると感じています。今までの記録をかき集めて、博物館の本をつくるよー。そして一刻も早く、本来目指していた姿に立て直したい。

 次回の更新では、博物館と白山丸のつながりを書こうと思います。

 

 

 

 

本の線引き箇所をたどる

◼︎本の線引き箇所をたどる
 人から本を借りるとその本には持ち主が線を引いた箇所があり、その人が重要だと考えた部分が見えてくるようです。かつて千石船の里として栄えた港町・宿根木集落に縁のある人から借りた本。

宿根木 - Wikipedia

 
宮本常一著『日本の中央と地方』(未来社
*線引き箇所 P16
「離島が文化の光からぐんぐんとりのこされていくようになったのは、帆船が汽船にかわり、その汽船が大阪や兵庫から島々を結ぶのでなく、離島にもっと近い本土から結ぶようになったことに大きい原因があるのだが、それには今一つ重要な変化があった。藩政が止んで府県制が実施せられると県の行政力が次第に力を増して来て、県単位に生産や経済の統制をはかるようになる。とくに第二次世界大戦を動機とする統制経済政策がこの傾向を助長した。そして僻地と中央都市との直接交易のルートをずたずたに切ってしまった。

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 だから宿根木にある佐渡國小木民俗博物館には、博物館に収集されていた資料をもとにして、再調査のうえにかつての千石船「白山丸」が復元されたんですね。集落の人の、過疎に対する地域復活の願いが読み取れるようです。私が調査で宿根木に行った日(2015.10)、4代前の先祖が千石船の船頭だったという人から「(宿根木の港が絶えたのは)両津のもんならわかるだろ」と言われたことを思い出します。(私が現在の新潟航路を結ぶ港町・両津の出身であるため)。もう私くらいの世代になってしまうと、「そんなことすら影も形もなくてわからねいよ、おじいちゃん」と心の中で思ったことを飲み込んで、コクリと頷いて実家に戻りました。
 
 
 
さて、私がこの本に線を引くならP185「社会教育」について。
 「次にもうひとつ大きな問題は教育ではないかと思っております。」「学校教育は非常に普及しております。どこへ行っても、地方に大きな高等学校ができております。これは大変結構なことですが、学校で教育されますと、そこでできた人間は、非常に公約数的な人間になってしまうのです。都会人としてはいいだろうが、農村人として、そういう人たちが農村にとどまるかどうかということが、問題になってきます。
 私の要望する教育というのは、社会教育なのです。日本では、社会教育、特に職業についている青少年の教育が、まったくおろそかにされています。」
 
 
 それで宿根木小学校が廃校になったときに、博物館を建てようということになったんですね。でも、これだけでは論文の資料足りないんです。具体的な資料がないと。
「資料のないところで論議は成り立たない」って先生が言ってました。。。。
人に話を聞いてそのまま書くのはインタビューであって、論文ではないんです。論文と雑誌記事では違うんです。(とくに私は職業柄この傾向が強くて注意された気がする)。
 
 
そこで、今から手紙を書いて、
博物館の話が聞きたいと言っているのに、八珍柿の話をし、
社会教育として書くと言っているのに、運動だ!運動だ!
と言ってきかなかった称光寺住職に再突撃の準備!!!!!!!
😤😤😡