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気まぐれ Art note

本の編集したり舞台裏の黒子やったりしています。

地域の力で設立した佐渡國小木民俗博物館

 博物館は設立が大切なので、

 とりあえず、私が学んだ武蔵野美術大学とつながりが深い「佐渡國小木民俗博物館」の設立をここにのっけておきます。みんなに知っておいてほしいよー。

◼︎地域の力で設立した佐渡國小木民俗博物館

【2-1】民具を収集して地域資源から文化財を発見する

 昭和47(1972)年に開館した佐渡國小木民俗博物館(以下、小木民俗博物館)のきっかけは、設立から14年前の昭和33(1958)年にさかのぼる。その年、民俗学者宮本常一新潟大学で開かれた日本民族学・日本人類学連合大会の後、佐渡を訪れた。この時に古い慣習が残っている所を調べようということになり、今度は九学会連合の調査として翌年も、翌々年も来島した。調査に訪れた宮本を、旧小木町宿根木にある称光寺の住職・林道明が尋ねて行った。その後、林が宮本に佐渡で講演会をしてほしいと依頼。以後、宮本は度々島内各所で講演会をすることになる(註21)。昭和40(1965)年に宮本常一武蔵野美術大学専任教授の職に就く。その4年後、昭和44(1969)年に奇しくも武蔵野美術大学建築学科の学生が佐渡を訪れ、小木町白木と宿根木の民家すべての測定と生活調査を行った。「精密と心のゆきとどいていることで私の眼を見はらせるものであった」(註22)と宮本に評価された調査結果は、大学で展覧会が開催された後に、小木民俗博物館に寄贈されている(註23)。

 そして博物館づくりは、昭和45(1970)年に宿根木小学校が廃校になったことで動き出すのである。中心となったのは、称光寺住職・林道明(後に初代館長に就任)、武蔵野美術大学建築学科の学生達、小木町社会教育主事の中堀均である。中堀が当時のことを記している。

「学校の統廃合の問題と過疎化との関連は深い。(略)私の町でも学校の統合により一つの小学校が廃校になり、地元でいろいろな話題となった。通学等の問題は解決したが、廃校舎の利用の問題である。昭和45年の春のことであった。地元では観光施設、工場誘致等の希望もあったが、ちょうどその頃、文化講演に来町されていた民俗学者宮本常一先生に相談したところ、民俗資料を収集して、民俗博物館にしてはどうかとの提案があった。」(註24)

 時代は日本経済が急速に発展した、高度経済成長期であった。家電製品の普及により日本人の生活は大きく変化し、便利で楽になり、それまで使われていた生活道具は大量に捨てられた。小木民俗博物館は、捨てられてゆく生活道具を集めてまわることから始まったのである。なぜかというと、そこには「人びとがどのようにして物を生産し、またどのような生活をたてて来たかをうかがうことはできる。実は人びとが捨て去ろうとしているものの中に、われわれの先人たちの歩いて来た足跡を見つけることができるのである。」(註25)という宮本常一の考え方がある。

 中堀は収集という行為を通して、寄附してもらった民具を見ると、使う人が消費者ではないことがわかると書いている。どれを見ても使い捨てのものはない。愛用していて、そのことは汗を流してついた手垢が証明している。大工、鍛冶屋、桶屋等がつくり、あるいは自分の手で物を作り、使う。「途中、何度も修理し、手直しをしている。現代の使い捨ての時代には考えられない人も多かろうと思う」とある(註26)。このようなことからわかるのは、集まった物の一つ一つに想いが込められている大切な資料だということである。資料と地域の強いつながりが見えてくるようだ。

 収集した民具は、埃や泥を落とし、写真、計測、収蔵展示し、寄贈者の名前を付す作業が進められ、小木町の多くの若者が手伝いに入った。中堀は博物館に出入りする若者や大学生の話し相手になり、そのうち人が人を呼んで多くの人が集まる場になり、過疎地の小さな集落に賑やかな博物館ができあがっていったのである。(註27)。博物館の資料収集・保存・記録は学芸員の仕事だが、ここでは中堀をリーダーに住民が一体になって作業が進行する。中堀が収集作業の続きを記している。

「こうして『こんなものなら家にもある』ということで、今度は持って来てもらうことになり、こうして量が増していくのである。このときから、住民と博物館の対話が生れ、とくにお年寄りは物をよく知っているので、記録するには大切な存在であるし、暇があることも博物館にとっては大きな利点でもある。博物館へ来る老人は生き生きしているといわれている。ある程度、時が過ぎ、物が集まると、博物館が人の集会場となり、日によると昼から酒盛りが始まり、今後どのように集めるか、誰があの家にはもらいに行くかなど、酒の上での話し合いが続き、夜を徹することも度々であった。」(註28)

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旧宿根木小学校を活用した博物館

 

 老人が体験を話し、若い男が運び出すという住民が一体になって収集作業をした結果、漁撈用具1293点、船大工道具963点が国の重要有形民俗文化財に指定された。中堀によると、このことがあまり重要視していなかったものに対する、地元の人達の物の見方と考え方を大きく変えたという。当時のことを知る人に、称光寺・林道明の跡を継いだ林道夫がいる。林によると「最初は皆んな、なんで民具なんか集めるのかと思っていた。それを廃校に持ち込んで、小木の若者や武蔵美の学生に整理・分類させて、公開したら皆んなが見に来た。宮本先生は資料から、どうやって地域で暮らしが成り立ってきたか、これからどうやって成り立たせていくかを考えさせようとしていた。」(註29)

 その後、博物館で、家業のこと、村の問題ことも話題になり、研修旅行、サマーセミナー、講演会などの企画も生まれ実行されていく(註30)。住民の手で自分たちの地域にある資料を収集する作業は、その過程で地域の文化を見つめ直すことにつながっていった。さらに過疎地で生業を立てて生きていくための、学びの場へと発展していくのである。昭和49(1974)年には、博物館で村の若者や大学生による日本海大学講座が開催される(註31)。佐渡独自の文化を打ち立て、離島での生きがいを対話形式で学び合おうとする青年たちの集いであった。

 佐渡國小木民俗博物館の土台を築いた宮本常一は、日本海大学講座第1回から7年後の昭和56(1981)年に他界する。

 

《参考文献》

宮本常一宮本常一著作集別集 私の日本地図7 佐渡』平成21年8月15日 未来社 、TEM研究所編『平成5年度・地域木造住宅供給促進事業 伝統木造住宅展示事業 宿根木の町並と民家Ⅱ』、中堀均「地域と結びつく博物館」『月刊社会教育』昭和57年6月 、宮本常一『民具学の提唱』昭和54年9月25日 未来社、『新潟日報』昭和49年9月12日付朝刊

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国指定民俗文化財・南佐渡の漁撈用具が収蔵されている新館展示室より

 

 本文中に(註)があるのは、これ私の論文の一部なんです。社会教育主事の中堀均さんの原稿からたくさん引用させていただきました。博物館づくりは大変だったと思うけれど、楽しそうですよね。設立がしっかりした博物館は、その後の活用に幅があり持続性があると感じています。今までの記録をかき集めて、博物館の本をつくるよー。そして一刻も早く、本来目指していた姿に立て直したい。

 次回の更新では、博物館と白山丸のつながりを書こうと思います。