気まぐれ Art note

洲之内徹が連載した「気まぐれ美術館」に憧れてます。

佐渡國小木民俗博物館と千石船「白山丸」のつながり

前回、佐渡國小木民俗博物館の設立について書きましたので、

地域の力で設立した佐渡國小木民俗博物館 - 気まぐれ Art note

今回はその後、博物館の隣にできた「千石船展示館」について書きたいと思います。

 

【2-3】集落総出で復元した千石船「白山丸」

 佐渡國小木民俗博物館設立から26年後の平成10(1998)年、博物館の隣に実物大に復元した千石船「白山丸」が展示された。これは地域住民の、千石船を復元したいという願いで実現した。提案者は、4代前の先祖が宿根木と関西方面とを結ぶ、北前船の船頭をしていた石塚敏行。時代の変遷と共に絶えてしまった千石船復元の動機には、博物館の影響が大きいという。石塚によると、「古いものを大事にしなさいという宮本常一先生の教えが集落に残っている。このような民具はなんでこの集落にあるのかを考えて、先人たちの足跡を伝えていかなきゃならん。昔はここが佐渡の玄関だった。千石船は150余年前に村人が造った船で、船主がおって、千石船で栄えた土地だった。そうは言うても、今はなにもない。宿根木の歴史を佐渡の子供たちに知っておいてもらいたい」(註40)ということだった。

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復元された千石船「白山丸」

 

 石塚はまず集落の友人に相談し、賛同者を募った。それが平成3(1991)年のこと。動き出してはみたものの、すでに絶えてしまっている千石船の具体的な知識がなかった。それでは勉強会が必要だということで、講師に真島俊一(TEM研究所所長)を招いた。真島は昭和45(1970)年、武蔵野美術大学建築学科を卒業。かつて小木町白木と宿根木の民家測定と生活調査をして、その徹底した仕事ぶりに宮本常一を驚かせた学生である。卒業しても、宿根木の民家測定を続けるよう宮本から助言されていた真島は、その後も佐渡を度々訪れ、地域の人たちと一緒に博物館設立時の民具収集を手伝っていた。さらに、宮本から日本の漁船調査を依頼されたことがあり、日本海沿岸のみならず船の原型を探すためインド、インドネシアにまで行って調べた経験があった(註41)。建築学の知識を持つ上に船の歴史と構造にも詳しかったのである。そして数回の勉強会と会合を重ねた末、平成4(1992)年「千石船建造推進委員会」が発足される。真島は設計図を手がけ、完成までのプロセスの指揮をとる。(「佐渡島の博物館統廃合から考える文化財の継承ー存続か閉館かを分かつ限界集落の地域遺産と、宮本常一の人材育成としての民具研究ー」より)

 

 白山丸が完成するまでのプロセスは、白山丸友の会が発行した『時代に帆を揚げてー白山丸復原の足跡ー』を読むと詳しく書いてあります。この本のなかで13ページは、博物館活動を考える上で重要だと思います。とくに武蔵美学芸員課程を受講する学生などにおすすめですよ。博物館の設立時に、収集・保存・調査・研究という学芸員の基本的な仕事が行われていたから、この資料をもとに地域の文化財ができあがっていったという、すばらしい過程を知ることができます。出題:「美術館における収蔵品の意義を探求する」という課題レポートがありましたが、この答えに該当すると思います。

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↑ ↑ 博物館のミュージアムショップで販売しています。

 

 

◼︎ 13ページの内容を紹介します。

「資料の収集と保存は博物館があったから」

  宿根木は、弁財船の船主、船頭、水主(船員)など海運に従事した人たちだけでなく、船を造船、修理する船大工、鍛冶屋、桶屋、家大工などいた総合海運業の村となっていたため、資料も多彩だったはずだが、これらの資料は戦後、不用になって捨てられ始めていた。処分が進んだ最後のころ、緊急に集め大量に収集、保存できたのは宿根木小学校が廃校になり、この空き校舎を博物館にした林道明館長と中堀均さんがいたからであった。2人が集めた民具類の総量は5万とも7万と点ともいわれるが、未だに全体の整理はついていない。残念なことである。

 この資料や民具の中には昭和49年(1974)国の指定文化財になったものがあり、それが漁具漁船1304点であり、船大工道具957点であった。これら史料を使って白山丸が平成10年(1998)に復原できたのである。24年前に保存されたこれらの資料に大いに感謝しなくてはならない。
 実を言えば船大工道具の収集の始まりは琴浦、屋号清水の主屋の屋根裏に、びっしり船大工道具の工具箱が並んでいたことからである。
 これを発見したのは民具と民家の調査に入っていた武蔵野美術大学の学生たちである。林道明館長と中堀均さんにこの情報を伝えると、2人は同家からの寄託を受けることができた。同家の主人高津正明さんは元船大工で称光寺の檀家で、林さんや中堀さんのよき理解者であり、後に新潟民具学会に入り千石船の復原を初めて提案する人となる。
 次に造船の設計図である板図が集められ、さらに沢山の民具の収集と保存が進んでいった。集められた民具、資料の多彩さに驚いた民俗学者武蔵野美術大学の教授でもあった宮本常一先生の助力で、国指定になる。この間の活動を支えた当時の町長金子繁さんの力も大きなものだった。こうした活動や博物館の民具、活動を支えた諸賢に深くお礼申し上げなくては現在千石船はない。(TEM研究所・眞島俊一)
 
 
 これを読むと、言い出しっぺ石塚敏行さんより前に高津正明さんという元船大工がいて、やはり千石船を復原させたいと言っていたことがわかります。ということは、地域全体に自分たちの歴史と文化を再生させたいという気持ちが潜在していたということであり、それは博物館設立がきっかけとなり、大きくさせていく原動力にもなった、と考えていいと思いました。
 このように博物館と白山丸のつながりが深いにも関わらず、現在は博物館と千石船展示館が別々に見えてしまうのはなぜでしょう? 
 次回の更新は「展示」を考てみたいと思います。